LOGIN返信を打とうとして、真琴の指は止まった。 光る画面の上に浮かぶ文字入力欄は、いつもより白く、どこか眩しすぎるように感じられた。胸の奥で、言葉にならない感情がゆっくりと渦を巻く。簡単な返事さえ、今の自分にはひどく難しい作業だった。『大変だったけど、なんとか』 そう書いて、消す。 消去キーを押すたび、まるで自分の弱さそのものを削り落としているような気がした。だが、弱音を吐きたいわけじゃない。心配を引き出すための言葉でもない。ただ事実を、少しだけ正直に伝えようとしただけなのに、どうしても形にならなかった。 それでも、平気なふりもしたくなかった。 強がりも、甘えも、どちらも今の自分には違う。ちょうどいい言葉が見つからないまま、真琴は画面を見つめ、喉の奥に引っかかった感情をそっと飲み込んだ。 結局、短く返す。『忙しかった』 送信ボタンを押した瞬間、指先にほんのわずかな震えが残った。やり取りを断ち切るつもりはない。ただ、これ以上自分を装うことも、本音を暴くこともできなかっただけだ。 すぐに、既読がついた。『そっか。じゃあ、軽く飲まない?』 その誘いに、胸が揺れる。 じわり、と熱が広がった。思っていたよりも強く。読み流せるはずの一行なのに、心が勝手に反応してしまう。グラスの触れ合う音、立ち飲みバーのネオン、あの夜の体温までが一瞬で蘇り、胸の奥で静かに軋んだ。 初日の仕事で削られた心が、温もりを欲しがっている。確かに欲しがっている。だが同時に、分かっていた。 ――今の自分は、逃げに行こうとしている。 仕事に戻ると決めたはずなのに、弱った自分を簡単に預けられる場所へ流れ込みそうになっている。誘いは優しいのに、その優しさが“退路”のように見えてしまう自分が、嫌だった。『今日はやめとく』 送信した瞬間、少しだけ後悔した。 「言いすぎた」後悔ではなく、「言い足りなかった」後悔でもなく、ただの反射。自分でもよく分からない種類の後悔。画面を伏せれば消えてくれるかと思ったが、消えてはくれなかった。『無理してない?』 大崎のメッセージは、優しかった。 その言葉は、手を差し出す距離のまま、踏み込まない温度で届いた。だが今は、その優しさが、今は重い。寄り添うための重さではなく、「これ以上は触れない」と告げる重さ。 そしてさらに、真琴は気
広告代理店のビルを見上げた瞬間、胸の奥が、わずかにざわついた。 懐かしいはずなのに、完全には馴染まない。 真琴は、深く息を吸い、エントランスへ足を踏み入れる。 受付を通り、エレベーターに乗る。 扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。 三浦から『戻って来い』と電話をもらってから、すでに半年近くが経っていた。 病院での業務の引継ぎや、新たに引っ越し。 退職手続きに、入社手続き。 会社を辞めたり、再就職したりするには、色々な手続きがあって、ここへ出社するまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。 ――戻ってきた。 そう思った途端、逃げ場がなくなった気がした。 フロアに足を踏み入れると、空気が違う。 キーボードの音。 電話の声。 若い社員たちの張りつめた表情。「……秋山さん?」 誰かが、小さく声を上げる。「前にいた人だよね?」 「え、本当に?」 ひそひそとした声が、波紋のように広がる。 好奇心と警戒が混じった視線が、真琴に集まる。「来たな」 奥から現れた三浦隼人は、相変わらず威圧感のある男だった。「紹介する。今日から戻る、秋山だ」 その一言で、空気が一瞬、止まる。 ――“戻る”。 歓迎でもなく、拒絶でもない。 ただ、事実として突きつけられた言葉。 若い社員たちは、軽く会釈をする。 中には、露骨に値踏みするような目を向ける者もいた。 午前中は、現状説明と資料の共有で終わった。 頭は回る。 内容も理解できる。 けれど、真琴の神経は、ずっと張りつめていた。「秋山さん、この数字、どう見ます?」 若い男性社員にそう聞かれ、一瞬だけ言葉に詰まる。 ――試されている。「……甘い。想定が楽観的すぎる」 少しだけ、言葉を選ばなかった。 周囲が静まり返る。 男性社員は、驚いたように目を瞬かせたあと、素直に頷いた。「……確かに」 三浦が、口元だけで笑う。 昼休み、真琴は一人で席に残った。 若い社員たちは連れ立ってランチに向かう。「秋山さんも行きます?」 そう声をかけられ、一瞬迷う。「今日は、いい。みんなで行ってきて」 理由はなかった。 ただ、今は一人でいたかった。 午後の会議では、容赦なく意見を求められた。「秋山、どう思う」 遠慮はない。 期待も、甘えもない
その電話が掛かってきたのは、夕方だった。 真琴は病院の更衣室で、バッグを肩に掛けながらスマートフォンを取り出す。 画面に表示された名前を見た瞬間、足が止まった。 三浦隼人。 一拍、呼吸が遅れる。 ――やっぱり。 胸の奥で、そう思った自分に、真琴は少し驚いた。 要件は、聞かなくても分かる気がした。 しかもその“分かっていた内容”は、喉から手が出るほど、 ずっと待っていたものだったのかもしれない。 それでも、すぐには出られなかった。 更衣室の隅で、スマートフォンを握りしめたまま、 数秒、立ち尽くす。 病院の廊下から聞こえてくる足音。 誰かの話し声。 いつもと同じ、変わらない日常。 ――ここじゃない。 その思いが、はっきりと浮かぶ。 意を決して、通話ボタンを押した。「……もしもし」『久しぶりだな、秋山』 低く、落ち着いた声。 聞き慣れた、前職の上司の声だった。「お久しぶりです」『元気か』「……はい」 短いやり取りのあと、 三浦は本題に入った。『大崎から聞いた』 その名前に、真琴の心臓が、少しだけ強く打つ。『アイツの近くに引っ越したんだってな』「……はい」『で、今は違う病院だとか』 否定はしなかった。『相変わらずだな。急に、全部捨てるところ』 責める口調ではない。 むしろ、苦笑混じりだった。 数秒の沈黙。 そして。『戻って来い』 その一言が、まっすぐに、真琴の胸に刺さった。 真琴は、すぐには返事ができなかった。 喉の奥が、ぎゅっと詰まる。 視界が、少しだけ滲む。 泣きそうになる。 ――ずるい。 そう思った。 こんなふうに、 あっさり言われてしまったら。『今の若い連中は、頭は柔らかいが、腰が軽すぎる』『お前は違う』『叩かれても、粘る』 その言葉ひとつひとつが、過去の自分を正確に呼び戻す。 終電まで続いた会議。 無茶な修正。 胃が痛くなるような現場。 それでも。 あの場所で、真琴は確かに輝いていた。「……今は、病院で――」『知ってる』 三浦は、遮るように言った。『親友のためだろ』 胸の奥が、また揺れる。 そうだ。 病院勤めは、本来、楓を助けるためだった。 ネットでの風評被害。 経営が軌道に乗るまでの、人手不足。
「でもさ……仕事の方は卒業してないんだろ?」「……してないね。むしろ留年してる」「は?」「今の仕事、行き詰まってんの」「え、病院の?」「病院もだけど……全部。仕事の内容に気持ちが追いつかないの。 気づいたら“誰の人生だっけ?”ってなる」「真琴らしくねぇなぁ」「そう。私らしくない」 大崎はグラスを持ち上げ、真琴をまっすぐ見る。「広告業界に戻りたいんじゃないのか?」 真琴の指が止まる。 喉がきゅっと締まるような感覚。 その質問が、真意を突いたようで、真琴は泣きそうになったが、ぐっとこらえた。「……それ聞く?」「聞くよ。逃げんな」「逃げてないって」「じゃあ答えろって」 真琴はグラスを握りしめる。「……分かんない」「分かんない、は逃げ」「違う。怖いの」「怖い?」真琴は大崎の顔を見た。怖いという弱音を吐いたことで、真琴の中の涙腺が決壊した。真琴は大粒の涙が、頬を流れるまま、拭うことも忘れ、大崎に胸の内を吐き出していた。「三浦さんにも引き留められたのに、振り切ってでてきちゃったし… しかも、今の若い子たち、みんなキラキラしてて……眩しすぎて直視できないし…」「お前も昔キラキラしてたよ」 そう言って大崎は少し黙る。 それから、ふっと笑った。「じゃあさ。俺から聞くけど」「うん」「輝けなかったら終わりなの?」「……終わりじゃないけど」「じゃあ戻れよ。終わりじゃないなら。怖いのはみんな同じだって。俺も怖いし」「大崎も?」「しょっちゅう。だから飲んでんだろ?」「それは逃げじゃないの?」「逃げだよ。でも逃げながらでも戻れる時は戻る。 戻る方がしんどいって分かってても、戻る方が“生きてる感じ”すんだよ」「……ずるいなぁ、その言い方」 真琴は泣き笑いで答える。「ずるくない。本音」 大崎の言った「本音」という言葉が、真琴の胸に刺さる。 しばらく無言で考えていた真琴は言った。「じゃあさ」「ん?」「戻りたいと思ってる自分を、否定しないでおく。 まだ決断はしないけど……そういう自分がいるってことだけ、認めとく」「先延ばし?」「大人の微調整」「やっぱ真琴だわ」「褒めてんの?」「本音」 鍵を返すように、グラスを軽くぶつけ合った。「また飲もうね」「ああ。次はキスなしで」「最初からな
夜の街は、思ったよりも賑やかだった。 平日のはずなのに、ネオンは眩しく、人の声は絶えない。「この辺、変わったよな」 大崎慎也が、グラスを傾けながら言った。「そう?昔は、もっと雑多だった?」「真琴、こういうの覚えてる?」 カウンター越しに差し出されたのは、ショットグラスだった。 テキーラ。 懐かしすぎて、思わず笑ってしまう。「まだ飲ませる気?」「真琴なら平気でしょ」 そう言われて、否定できない自分がいた。 広告代理店にいた頃。 仕事帰りに飲んで、笑って、夜を使い切るように生きていた。 楽しかった。 確かに、あの頃の自分は、輝いていたと思う。「今は、ああいう生活してないんだろ?」 大崎が、探るように聞く。「……してない」 正直に答える。「病院の仕事は、楽しい?」 一瞬、言葉に詰まる。 楽しいか。 やりがいはある。 誰かの役に立っている実感もある。 でも――「落ち着いてはいる」 それが、今の精一杯だった。「真琴らしくない答えだな」 そう言って、大崎は笑った。 グラスが空になり、二軒目に移る流れになる。 自然だった。 拒む理由も、なかった。 二人で歩く夜道。 距離が、少し近い。「真琴さ」 信号待ちで、大崎が足を止める。「俺、正直に言うとさ……また会えて嬉しかった」 街灯の下で、彼の表情が少しだけ真剣になる。「懐かしさだけじゃない」 胸の奥が、静かに波打つ。 こういう言葉に、昔は迷いなく身を委ねていた。 楽しいなら、それでいい。 未来なんて、その時考えればいい。 ――でも、今は違う。 バーの個室。 照明は落ち着いていて、音楽が低く流れている。 肩が触れ合う距離。 大崎の指が、真琴のグラスに触れる。「変わったって言ったけどさ」 囁くような声。「俺は、今の真琴も、嫌いじゃないかな」 そのまま、視線が絡む。 一瞬で、分かる。 これは、越えられる距離だ。 体温。 香水の匂い。 昔と同じ、でも少し違う空気。 真琴は、目を逸らさなかった。 唇が近づく。 ほんの少し、ためらい。 ――ここで、戻れる。 でも、戻らなくてもいい。 そんな二つの声が、同時に聞こえた。 唇が触れる寸前で、真琴はそっと手を上げた。「――ストップ」
それは、懐かしい熱だった その男は、真琴の名前をフルネームで呼んだ。「……秋山真琴?」 声に振り向くと、少し驚いたような、でも楽しそうな顔があった。 スーツ姿。ネクタイは緩め、仕事帰りらしい。「あ……」 一拍遅れて、記憶が追いつく。「久しぶり。覚えてる? 大崎」 覚えている。 忘れるほど薄い関係ではなかった。「大崎、慎也……?」「懐かしいな、その呼び方!まだ覚えてくれてたんだ」 彼はそう言って、笑った。 あの頃と変わらない、軽くて人懐っこい笑顔。 場所は、駅近くの立ち飲みバーだった。 真琴は仕事帰り、なんとなく寄っただけだった。 誰かに会う予定など、なかった。「真琴、今は何してるの?」 呼び捨て。 それだけで、胸の奥が少しだけざわつく。「医療事務。病院で働いてる」「へぇ。意外」 そう言われるのは慣れている。 広告代理店時代の真琴を知る人間は、だいたい同じ反応をする。「大崎は?」「俺? まだ広告。相変わらずだよ」 懐かしい単語だった。 締切、修羅場、深夜のコンビニ、朝焼け。「一杯、付き合わない?」 断る理由はなかった。 断る必要も、感じなかった。 グラスを合わせた瞬間、 真琴は、昔の自分に戻ったような錯覚を覚えた。 会話は軽く、テンポがいい。 仕事の愚痴、昔の同僚の噂、どうでもいい笑い話。「真琴さ、変わったよな」「そう?」「落ち着いた。でも……それ、好きだった?」 一瞬、答えに詰まる。 好きかどうか。 考えたことは、なかった。「悪くはないよ」「ふーん」 大崎はそれ以上、踏み込まなかった。 その距離感が、心地よかった。 楽しい。 ただ、それだけ。 帰り際、大崎が言った。「また飲もう。今度は、ちゃんと時間あるとき」 名刺代わりに、スマホを差し出される。 真琴は一瞬迷い、連絡先を交換した。 駅のホームで、電車を待ちながら、 胸の奥が、少しだけ熱を持っていることに気づく。 ――楽しい、だけじゃダメなんだっけ。 そんな疑問が浮かんだが、すぐに消えた。 翌日、真琴は所用で訪れていた楓と再会した。 病院のエントランス。 白衣姿の楓は、相変わらず忙しそうで、それでも凛としていた。「真琴」 名前を呼ばれて、足が止まる。「久しぶり。こ